上野公園に行ったことのある人は、西郷隆盛の銅像は1回は見たことありますよね。
この冬、私が写真を撮りに行ったときも人だかりができていました。
西郷さんをバックに写真を撮っている人も多く、
「インスタグラムにアップするのかな?」と思いながら見ていました。
西郷さんの時代は写真はありましたが、SNSなんてもちろん無かったですから、
いまこうしてインスタに撮られている感想を、西郷さんに聞いてみたいものです(笑)
とはいえ、当然のように上野公園にある西郷さんの銅像ですが、
なぜ上野公園にあるのでしょうか。
西郷さんの出身地といえば鹿児島ですし、なぜ東京に?
ということで理由を調べてみました!
銅像の由来
西郷隆盛の銅像の近くに、由来が書いてある石碑が建立されていました。
撮影当日、この碑文を読んでいる人はいませんでしたが・・・

この碑文によると、
「一時逆賊とされていた西郷隆盛が、明治天皇の特旨による賊名を除かれ正三位を追贈された。
これに感激した旧友「吉井友実」が同志と共に「追慕の情」を表すべく建立を計画した。」
とあります。
結論としては、その通りなのですが、もう少し深く考察してみたいと思います。
そもそも西郷さんはなぜ逆賊になった?
そもそも西郷さんはなぜ当時の明治政府に対する「逆賊」になったかと言うと、
武力反乱を起こしたからです。
その反乱は「西南戦争」と呼ばれており、日本国内で最後の内戦となっています。
詳しい経緯は、長くなってしまうのでまたの機会にしたいと思います。
西郷隆盛の出身地「鹿児島」がある南九州、つまり「西南」が戦争の舞台になりました。
賊名を説かれた理由
碑文によると、西郷さんが賊名を除かれたのは明治22年の2月とありますね。
これは明治22年2月11日に、当時の憲法である「大日本帝国憲法」が交付されたため、
恩赦と言う形で、西郷隆盛の賊名は除かれ正三位を追贈されました。
正三位とは当時、日本に存在していた貴族階級である「華族」の位のことです。
明治天皇は西郷の人柄を愛していたそうですから、何かの機会に恩赦したいと思っていたのかも知れませんね。
銅像を建立した吉井友実とは誰?
では、その恩赦に感激し銅像を建立した「吉井友実」とは何者でしょうか。
吉井友実(よしい ともざね)とは、西郷隆盛と同じく薩摩藩の藩士であり、幼少期からの親友でした。
共に幕末において、尊王倒幕運動に参加していましたが、明治維新後は西郷隆盛と袂を分かつことになってしまいました。西郷が辞職して鹿児島に帰ってしまう「明治六年政変」と言われる政変です。
ですので、西南戦争でも西郷側についてはいません。
しかし、銅像建立の資金を集めることに奔走していますから、西郷への思慕は残っていたのだろうと思います。
上野に建立した理由
明確に上野に決めた理由は、見つけられませんでしたが、
やはり「上野」という場所が東京を護る場所であることが大きいと思います。
京都における「比叡山」のように、皇居から見て「上野」は鬼門にあたります。
ですので上野には、鬼門を守護する「寛永寺」があります。
西郷さんは現代に至るまで、ずっと東京を見守っているんですね。