2020年11月28日土曜日

西郷隆盛の銅像はなぜ上野にあるのか?



上野公園に行ったことのある人は、西郷隆盛の銅像は1回は見たことありますよね。
この冬、私が写真を撮りに行ったときも人だかりができていました。





西郷さんをバックに写真を撮っている人も多く、
「インスタグラムにアップするのかな?」と思いながら見ていました。





西郷さんの時代は写真はありましたが、SNSなんてもちろん無かったですから、
いまこうしてインスタに撮られている感想を、西郷さんに聞いてみたいものです(笑)





とはいえ、当然のように上野公園にある西郷さんの銅像ですが、
なぜ上野公園にあるのでしょうか。
西郷さんの出身地といえば鹿児島ですし、なぜ東京に?
ということで理由を調べてみました!





銅像の由来





西郷隆盛の銅像の近くに、由来が書いてある石碑が建立されていました。
撮影当日、この碑文を読んでいる人はいませんでしたが・・・






この碑文によると、





「一時逆賊とされていた西郷隆盛が、明治天皇の特旨による賊名を除かれ正三位を追贈された。
これに感激した旧友「吉井友実」が同志と共に「追慕の情」を表すべく建立を計画した。」





とあります。
結論としては、その通りなのですが、もう少し深く考察してみたいと思います。





そもそも西郷さんはなぜ逆賊になった?





そもそも西郷さんはなぜ当時の明治政府に対する「逆賊」になったかと言うと、
武力反乱を起こしたからです。
その反乱は「西南戦争」と呼ばれており、日本国内で最後の内戦となっています。

詳しい経緯は、長くなってしまうのでまたの機会にしたいと思います。
西郷隆盛の出身地「鹿児島」がある南九州、つまり「西南」が戦争の舞台になりました。





賊名を説かれた理由





碑文によると、西郷さんが賊名を除かれたのは明治22年の2月とありますね。
これは明治22年2月11日に、当時の憲法である「大日本帝国憲法」が交付されたため、
恩赦と言う形で、西郷隆盛の賊名は除かれ正三位を追贈されました。





正三位とは当時、日本に存在していた貴族階級である「華族」の位のことです。





明治天皇は西郷の人柄を愛していたそうですから、何かの機会に恩赦したいと思っていたのかも知れませんね。





銅像を建立した吉井友実とは誰?





では、その恩赦に感激し銅像を建立した「吉井友実」とは何者でしょうか。





吉井友実(よしい ともざね)とは、西郷隆盛と同じく薩摩藩の藩士であり、幼少期からの親友でした。
共に幕末において、尊王倒幕運動に参加していましたが、明治維新後は西郷隆盛と袂を分かつことになってしまいました。西郷が辞職して鹿児島に帰ってしまう「明治六年政変」と言われる政変です。
ですので、西南戦争でも西郷側についてはいません。

しかし、銅像建立の資金を集めることに奔走していますから、西郷への思慕は残っていたのだろうと思います。





上野に建立した理由





明確に上野に決めた理由は、見つけられませんでしたが、
やはり「上野」という場所が東京を護る場所であることが大きいと思います。





京都における「比叡山」のように、皇居から見て「上野」は鬼門にあたります。
ですので上野には、鬼門を守護する「寛永寺」があります。





西郷さんは現代に至るまで、ずっと東京を見守っているんですね。