2020年11月29日日曜日

そもそも「新選組」という名前は誰が付けた?由来は?


2020年5月22日に映画『燃えよ剣』で主役でもある「新選組」という組織。
もちろん幕末の物語の中では有名ですよね。








意味としては、新しく選ばれた者たち・・・かなと想像はできますが、
自分たちでそう名乗ったわけではなさそうです。
そこで、だれが名付けたのか調べてみました。





「新選組」の名付け親は誰か





名付け親は誰か?となると2つの説が存在しています。





1つは、朝廷から武家伝奏(朝廷と武家の間を取り持つ役職)を通じて
隊名を賜ったという説。





もう1つは、当時、京都守護職だった会津藩主の松平容保から賜ったという説があります。
「新選組」という名前は、会津の警備部隊として元々存在しており、
そこからとってきた名前とされています。





どちらが正しいかは謎ですが、賜った名前というところは間違いありません。





「新選組」が誕生した日





「新選組」という名前が付いたタイミングは、
1863年9月30日、 幕末の京都で八月十八日の政変と呼ばれる事件の後です。
(旧暦では文久3年8月18日に発生)





当時、過激な攘夷論(外国勢力の撃退、通商拒絶)を唱えていた長州藩が、
朝廷から排除されるというクーデターのことです。





この時、近藤勇や土方歳三が所属していた「壬生浪士」が京都御所の警備にあたり、
その働きが評価されて「新選組」という名前を新たに拝命したと言われています。





「新選組」なのか「新撰組」なのか





また、漢字については「新組」と「新組」、どちらも資料として残っています。





新選組トップの局長である近藤勇も、副長の土方歳三も両方の漢字を使っています。
あまり本人たちも気にしていなかったのかも知れませんね。





一般的には「新選組」の方がよく使われるようです。





「新選組」の命名に深く関わったのは、松平容保





新選組の名付け親は2説ありますが、朝廷からであっても、会津藩からであっても
いずれにしても京都守護職の松平容保が働きかけたのでしょう。





なぜかと言うと、そもそも、近藤勇や土方歳三ら「壬生浪士」が京都守護職のもとで働きたいと志願しており、実際に御所警備を行い接点があったからです。





ただし、会津藩に仕官したのではなく、あくまで「会津藩預かり」という非正規な組織であったようです。








2020年11月28日土曜日

西郷隆盛の銅像はなぜ上野にあるのか?



上野公園に行ったことのある人は、西郷隆盛の銅像は1回は見たことありますよね。
この冬、私が写真を撮りに行ったときも人だかりができていました。





西郷さんをバックに写真を撮っている人も多く、
「インスタグラムにアップするのかな?」と思いながら見ていました。





西郷さんの時代は写真はありましたが、SNSなんてもちろん無かったですから、
いまこうしてインスタに撮られている感想を、西郷さんに聞いてみたいものです(笑)





とはいえ、当然のように上野公園にある西郷さんの銅像ですが、
なぜ上野公園にあるのでしょうか。
西郷さんの出身地といえば鹿児島ですし、なぜ東京に?
ということで理由を調べてみました!





銅像の由来





西郷隆盛の銅像の近くに、由来が書いてある石碑が建立されていました。
撮影当日、この碑文を読んでいる人はいませんでしたが・・・






この碑文によると、





「一時逆賊とされていた西郷隆盛が、明治天皇の特旨による賊名を除かれ正三位を追贈された。
これに感激した旧友「吉井友実」が同志と共に「追慕の情」を表すべく建立を計画した。」





とあります。
結論としては、その通りなのですが、もう少し深く考察してみたいと思います。





そもそも西郷さんはなぜ逆賊になった?





そもそも西郷さんはなぜ当時の明治政府に対する「逆賊」になったかと言うと、
武力反乱を起こしたからです。
その反乱は「西南戦争」と呼ばれており、日本国内で最後の内戦となっています。

詳しい経緯は、長くなってしまうのでまたの機会にしたいと思います。
西郷隆盛の出身地「鹿児島」がある南九州、つまり「西南」が戦争の舞台になりました。





賊名を説かれた理由





碑文によると、西郷さんが賊名を除かれたのは明治22年の2月とありますね。
これは明治22年2月11日に、当時の憲法である「大日本帝国憲法」が交付されたため、
恩赦と言う形で、西郷隆盛の賊名は除かれ正三位を追贈されました。





正三位とは当時、日本に存在していた貴族階級である「華族」の位のことです。





明治天皇は西郷の人柄を愛していたそうですから、何かの機会に恩赦したいと思っていたのかも知れませんね。





銅像を建立した吉井友実とは誰?





では、その恩赦に感激し銅像を建立した「吉井友実」とは何者でしょうか。





吉井友実(よしい ともざね)とは、西郷隆盛と同じく薩摩藩の藩士であり、幼少期からの親友でした。
共に幕末において、尊王倒幕運動に参加していましたが、明治維新後は西郷隆盛と袂を分かつことになってしまいました。西郷が辞職して鹿児島に帰ってしまう「明治六年政変」と言われる政変です。
ですので、西南戦争でも西郷側についてはいません。

しかし、銅像建立の資金を集めることに奔走していますから、西郷への思慕は残っていたのだろうと思います。





上野に建立した理由





明確に上野に決めた理由は、見つけられませんでしたが、
やはり「上野」という場所が東京を護る場所であることが大きいと思います。





京都における「比叡山」のように、皇居から見て「上野」は鬼門にあたります。
ですので上野には、鬼門を守護する「寛永寺」があります。





西郷さんは現代に至るまで、ずっと東京を見守っているんですね。








2020年11月27日金曜日

大村益次郎は、本当に上野を向いて立っているのか

我が家では、祖父が時代劇が大好きで一家でよく見ておりました。
そんな中、ある日放送された幕末ドラマに出ていた「大村益次郎」がいい味を出していました。
彼は人付き合いが悪いのですが、とても見識深く才気を感じさせるのです。
(ドラマの名前は忘れましたが・・・)





この大村益次郎の銅像が都内にあって、「上野を向いて立っている」と
どこかで聞いた記憶があったんです。





実際に確かめたことは無かったので、
先日、天気が良かった日に確かめてきました!





そもそも大村益次郎とは?





大村益次郎とは幕末の長州藩(山口県)の生まれ。
洋学者でしたが、明治維新では長州藩の軍隊を指揮する立場になります。





後の明治時代では兵部省の兵部大輔(今で言うと防衛省の事務次官)になった人です。
つまり近代日本の陸海軍のトップということですね。





上野を向いている理由





明治維新が行われる中で、上野の辺りで戦争がありました。
そのまま「上野戦争」と呼ばれています。





その時、新政府軍を指揮していたのが、この「大村益次郎」でした。
なので、「大村益次郎」の銅像が上野を向いている理由は、そのためだろうと思うのですが・・・





本当にわざわざ上野を向けて作ったのかな?と、前から疑問でした。






銅像の場所

大村益次郎の銅像は靖国神社の中にあります。
九段下駅から参道に沿って歩いてくると、銅像が見えてきます。





銅像の向き

向きを確かめるために、もうちょっと近づいてみると・・・


参道に対して、ちょっと左に傾いて立っていますね。



さらに寄ってみると・・・
確かに参道の入り口に対して、左を向いています。




地図で検証



実際にOpenStreetMap さんの地図を使って、検証してみます。


© OpenStreetMap contributors

靖国神社の地図を表示してみると、大村益次郎の銅像はここ。

東に延びている参道に対して、銅像は少し左向きでした。






一方、上野の地図です。
上野と言っても、どこをターゲットにしようと思いましたが、
ここは同じ銅像繋がりということで、西郷さんの像としてみます。






© OpenStreetMap contributors

銅像同士、矢印を引っ張ってみると・・・
確かに、上野の方角を向いて立っていると言えます!




現在はオフィスビルが乱立しているため、残念ながら上野の山は目視できません。
建立された明治期には見えていたかも知れませんね。












2020年11月26日木曜日

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2020年11月25日水曜日

プロフィール


はじめまして!




はじめまして!「かたりな」と申します






このブログでは私が好きな「歴史」についての考証や、史跡巡りなど
いろいろ書いていきたいと思っています。





歴史が好きになったきっかけ





きっかけという程、記憶は残っていないのですが、
小学校の頃、まんが『日本の歴史』をよく読んでいました。
戦国時代の話など、子供でもわかりやすく面白く書かれていますよね!

他には、祖父の家に遊びに行った時、書斎にある歴史の本を探してみたり。
歴史が題材になっている「大河ドラマ」の放送を見ていたり。
よく考えると、日常の中で「歴史」に触れる時間が多かったなあ・・・





時は流れて高校生になり、「歴史」の授業の中でこのような言葉を知りました。





歴史とは、現在と過去の間の対話である」





イギリスの歴史家「E・H・カー」の有名な言葉です。





現在と過去の間の対話って何だ?
と、これだけでは雰囲気しかわからないと思うので、もう少し、カーの著作から引用すると、





過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解出来るものでありますし、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することが出来るものであります。

E・H・カー. 『歴史とは何か』




と言っています。
つまり、『歴史』を学ぶということは、





①現在、生きている私たちの主観で、過去の出来事を理解する
②過去の出来事を鍵として、現在の社会を理解する





という、双方向の理解(=対話)があるということです。





私も過去を振り返ってみると、歴史が好きだった理由は、
この対話により「理解」が広がっていくという感覚が好きだったのかと改めて思いました。





このブログについて





このブログでは「歴史」を中心に、いろいろ書いていきたいと思っています。





とはいえ、 歴史に絡んだ話題、趣味的な話も書ければなと。
せっかく史跡の画像を撮るために、カメラも用意したことですし
撮影も上手くなりたい!と思うこの頃です。





そして、このブログを訪れてくれた方の、知的好奇心が満たせればと
また、なにかの理解のお手伝いになれば幸いです。





できるだけ画像も交えて、分かりやすいブログにしていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。